石川巧教授×川崎賢子教授対談全文

ーーー石川教授も川崎教授も、なぜ文学に興味を持たれたのかとか江戸川乱歩に興味を持たれたのかとかきっかけを伺いたいです。

石川先生)
僕はすごく単純な理由がありまして、僕は秋田の田舎に生まれたんですね。そこで18歳まで過ごしていまして母親が図書館の司書だったので図書館に通うしか能がないというか、それだけが唯一の楽しみだったんですね。田舎で学問をしようと思うと、まず1つは英語を話せる人がいない。それから理系の学問が自分のアンテナを張れる場所にない。唯一残されていたのが本から知識を得られる学問だけだったんですね。そうなると必然的に文学っていうのがとても手っ取り早いというか、文庫本はどこにでも売ってますからそれを読んでものを考えたりする事は田舎の高校生にもできたんですよね。だから僕はほんとに消去法で他に手が出せないので文学をやると言う感じでした。

川崎先生)
私も東北出身なんです。周りがみんなほとんど教員だったんですけど、私は理系だったんです。ずっと家族を含めて周りの価値観が、理系は文系より上にあるみたいな、それでそういうインプットされてたんですけど。高校時代に旧東京帝大出身の先生に出会って、その先生が素晴らしかったんですね。その私が傾倒した高校時代の国語の先生は、漢文の最初の時間、新入生が頑張って予習してきた結果を発表したら、「君が使っているのは○○の辞書ですね」とおっしゃったのです。答えは一つしかないと思い込んでいた新入生たちは、「辞書によって解釈が違う」「しかもそれが全部頭の中に入っている先生がいる」ことを教えられて、もうびっくりしてしまったのでした。ものすごく衝撃を受けて、それまでに飛び抜けて純粋に学問的な人を見たことがなかったので衝撃を受けて、文転したんしちゃったんです。
それから、ずっと親は反対していたし、内緒で。入学の時にも理系も文系も選択しないっていう大学に進んで、ずっと理系に行ってもいいっていう顔を親に見せながら大学の2年生くらいに選択で文系に行ったんです。色々な人との出会いというか、素晴らしい先生に出会ったって言うことが、高校の時も大学の時も大学院の時もそれからそこを出た後にも、最後にも前田愛先生にもお世話になりましたけども、でも長いこと創作もやったりしていたので、それで食べて行けたらいいなと思っている部分もあったんですけど、そんなにうまく世の中は転がらないし。それからいわゆる雑誌や新聞紙上で文芸時評や演劇時評を書いていたんですけど、バブル崩壊とともにどんどんそういう仕事もなくなってこれはちょっと腰を据えて自分の土台を築かなければと思って少しずつ確実的な書物のほうにシフトしていたって言う感じです。今こういう時代だからかもしれないですけど、本当に歴史と向かい合って読むことと、書くことを積み重ねている人たちが文学研究の中にいるなという手ごたえはなんとなくあります。だから今この道を選んだ事は後悔ないです。むしろ充足感を持ってますね。

石川先生)
川崎先生は若い頃舞台にも立たれていたんですよね笑

―ーー何を演じられていた?

川崎先生)
もちろんそんなものはアングラに決まっているじゃないですか笑

石川先生)
川崎先生は本当に文学と言う感じですよね。
世界にどっぷりつかっているというか、僕は文学研究が好きなだけなんです。変な言い方をすると創作は1行もしたことがありません。やろうと思ったこともありませんし、ないんですよ。優れたテキストを何か分析的に読むことが好きなんですね。それだけなんです。

次ページ:立大生必見! 立大生へおすすめの本と講義について(↓下記ページ番号4をクリック!!)

関連記事一覧