【軟式野球部】二足のわらじの悩める大砲 松田啓
背番号31が振り抜いた打球は誰よりも鋭かった。3年間左の大砲として名を馳せた松田啓(文4)である。長打力はチーム随一であり、ここぞの場面で好打を発揮した。「楽しい4:苦しい6」。一方、楽しさだけではなく、学生監督としては苦労も経験した。2季ともに下位に沈み、勝つことの難しさを実感。悩む日々が続いていた。
北の国から
チーム1の巨漢は唯一の北海道出身。幼少期から近所の公園で野球をしていた。中学進学を機に野球部へ入部。さまざまなポジションをこなしたが、ある時紅白戦で体が大きさ、肩の強さを買われて捕手として起用された。それ以降捕手としてプレー。高校時代はチーム事情に合わせて投手もこなした。高校卒業後、浪人期に突入するも、その間も大学で野球を続けたい一心で走り込みなどを行っていた。「ある程度真面目にやりたかった」。立大入学後はサークルや他の部活を見ているうちに軟式野球部が自分に適した環境であると感じ、入部。2年次から正捕手の座を任され、打線の中軸としても起用された。そのシーズン、忘れられない試合があった。9月の慶大戦、4回時点で0−7とワンサイドの展開から4点を返し、3点差の場面。自身の3点本塁打で同点に追いついた。その後チームはサヨナラ勝利。7点差の場面から勝ち星を挙げた。
味わった苦しさ
プレーをする上でいつしか苦しさがまとわりついていた。「苦しかった」。3年次から監督として采配を担った松田啓。自身の思い描いていたビジョンと現実との差には大きなギャップがあった。監督として初めて臨んだ春季リーグでは開幕6連敗。結果が出ないことに焦りを感じていた。自身としては初のベストナインを獲得するも、チームは最下位。思い通りにいかず、選手に厳しく当たってしまうことも。このような現状を打破すべく、選手とのコミュニケーションに力を入れた。「少しでも不満があったら嫌だなと思った」。学年関係なく下級生と意見を交わし、日々の会話を大事にした。
解き放たれた負担
「監督任せてみれば?」。ある日、同い年で同期の安藤(現4)からの提案された。最後のリーグ戦となった秋季リーグの最中、采配に悩む松田啓に対し安藤が声をかけた。「チームのためになれば」と提案を承諾。チームのために自分を曲げた。リーグ戦半ばから次期監督の陣川(済3)が采配を担当した。「信頼して任せておける存在だった」。采配を任せた甲斐があって松田啓は選手に専念することができた。
“個性“
打てない苦しさ、勝てない苦しさも多く経験したが、楽しさも多く味わった。「あのメンバーでいるのは楽しかった」。ベンチから大きな声を出して仲間の活躍に歓喜し、勝利の喜びを分かち合った。「良い意味でも悪い意味でも気持ちを楽にして野球ができる環境が魅力」。厳しくて辞めようと思ったことはなく、純粋に野球を楽しむことができる環境に感謝した。自身の3年間を「個性」であると言い表した。「3年間それぞれ別のチームのようだった」。1年ごとに監督や主将が変わる軟式野球部では、執行代によって年度ごとに異なるチームカラーが生まれる。それが楽しくもあり、責任感も感じた。「同じやつがいない。変な奴しかいない」。また、それぞれ異なる個性を持った同期や後輩たちの存在も新鮮だった。「自分も個性を出せた。後輩たちも個性を出していってほしい」。次なる世代の飛躍を願い、グラウンドを去った。
(3月29日 渡邊大樹)
※掲載が大幅に遅れましたことをお詫び申し上げます。