【野球部】「大切なことは後悔しないこと」オリックスのサブマリン中川颯の軌跡と夢の叶え方―①夢の原点と工夫の始まり

2020年10月26日。プロ野球を目指す者にとって登竜門ともいえるドラフト会議が行われた。今年はコロナウイルスによる試合数の減少で選手達にとってアピールの機会が少なくなる中、東京六大学からは15人の選手が志望届を提出し、吉報を待った。立大からは中川颯(コ4=桐光学園)がオリックス・バファローズから4位指名を受けた。1年生では抑えとして立大のリーグ優勝、全国制覇に貢献するも、2年生以降は成績面で苦しみ続けた中川。4年間の苦悩、プロ入りまでの思いや貫き続けた信念を語ってくれた。

夢と父の思い―厳しい指導の背景にあった父の高校時代

「やるなら中途半端はだめだぞ」。中川が野球を始めるとき、最初に父に言われた言葉だった。父からはゴルファーやレーサーなど幅広いスポーツの選択肢を勧められるも、自身は野球を選んだ。始めた時からプロ野球を意識し、父との特訓が始まった。高校入学までの9年間はアニメ・巨人の星の如く、厳しい指導を受けながら野球のいろはを教わった。

大学生活最後の試合を観戦した父・中川貴成さん(写真左)と母・中川知子さん

「何事も中途半端ではダメですし、特に野球に関しては厳しく接すると決めていました」と当時を振り返る父・貴成さん。父にとって野球は思い入れのあるスポーツ。高校時代は強豪・横浜商業高校野球部に所属し、松坂大輔(現埼玉西武ライオンズ)や数々のプロ野球選手を輩出した小倉清一郎氏のもとで、厳しい練習の毎日を送った。「自分も野球を経験する中で、プロの世界で活躍するには経験した以上に厳しい練習や指導が必要だと思いました」。だからこそ、より力が入った。息子が少年野球チームに所属すれば、父もコーチとして参加した。息子の指導だけでなく、チームの強化にも尽力した。母は体調面でサポートをした。食が細かった息子の為に独自に栄養や効率の良い食事を研究した。技術面では父との二人三脚。身体面では母との二人三脚。家族と共に高みを目指して野球を始めた。

小学生の頃は小雀少年野球部で遊撃手として活躍。父もコーチとして参加した

アンダースローは4番手投手が飛躍を目指した工夫

始めて間もない少年野球では遊撃手として活躍する野手だった。高学年では投手としても活動したが、当時は身長150㌢前後と同年代に比べて小柄な体格。球速も遅く、チーム事情を加味した4番手投手だった。それでも投手への道にこだわったのは訳がある。「自分は足が速いわけでも、抜群に秀でた身体能力があるわけではない」と自分自身の状態を見極め、投手としての道を自ら選んだ。

体格や球速は工夫で埋め合わせた。渡辺俊介氏(元千葉ロッテマリーンズ)のフォームを参考にアンダースローに切り替えた。小学校高学年、成長期真っただ中で始めた投法の変更。怪我のリスクも考えられるが、「上投げの投手としては活躍の限界が見えていた。根っからのアンダースローとして極めれば活躍の幅が広がるのでは…」と父も承諾。高みを目指せる可能性を選択した。

指導を受ける中川(写真左)と若林孝誌さん。小学生から現在まで共に調整を重ねた

アンダースローには柔軟性のある身体や強靭な下半身が必要とされる。「難しいと感じたことは柔軟な身体作り。ヨガ、水泳、色んな習い事を検討しました」と父は振り返る。選択したのは野球を通じて知り合った知人から紹介されたフィットネスジム・ラクネス。若林孝誌氏と共に小学6年生から現在までトレーニングを重ね、柔軟な身体づくりに励んだ。成長を後押ししたのは中川自身の小学生・中学生離れした目的意識。「このトレーニングは何の為にやっているのか」と地道な練習の中でも常に意味や目標を考えた。「何百人と学生アスリートを見てきたが、これほどの選手は見たことない」と若林氏も評価するほどの意識の高さ。怪我もなく、アンダースローの礎を作り、父と映像や画像を見ながら自身にあったオリジナルフォームを作り上げていった。

(1月25日/山口史泰)

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