【陸上競技部】松浦岳のカッコよさは「ブレない青臭さ」。かけっこ少年だから成し得た第98代主将。
「ワクワク」の言語化は難しいと、いつも思う。
胸が高鳴る、手に汗を握る、声を枯らす…。どんな言葉を使おうとも、私の四年間にわたる学生記者生活、空気や感情は文字に起こした瞬間にしけってしまうものだった。
この日もそうだった。
令和元年の5月24日、関東インカレ2日目。十種競技最終種目の1500㍍。一人の男の「主将」としてのラストランに、私はカメラを忘れて声をあげていた。フィニッシュを見届けた後の、じんわりと残る高揚感。あの感覚をどう伝えることができるだろうか。
いつだって少年漫画の主人公のようなワクワクを見ている人に与える。
それが、松浦岳(コ4=長生)という男だ。
実力も人間性も折り紙つき。
千葉県立長生高等学校時代にも、平成27年度の南関東高校総体では八種競技で5064点を獲得し6位に入賞。大学進学後も着実に記録を伸ばし、本年度の関東インカレでは昨年から268点を伸ばす6430点で4位に入賞した。関東インカレ初出場の2017年には6075点で4位に入賞。スランプにも陥らない、安定したパフォーマンスの発揮が松浦の強みだ。
昨年の主将就任にあたって、原田元監督(64=現長距離総監督)も決定に満足の様子だった。
「あいつはさ、(主将就任前から)練習後にちゃんと一言あいさつに来るんだよ。簡単なようで、黙ってても自然にできるやつは多くいない。まあ(98代目の主将は)あいつになるだろうなと思ってた。実力も十分だし(主将の役目を)ちゃんとやってくれるんじゃないかな」
「優しい立教」の上の「強い立教」。
ふと、飲みに誘ったことがある。主将就任から2ヶ月後の昨年8月。取材目的が半分、松浦岳という人間への純粋な興味が半分だった。くだらない話、互いの部の楽しさ、そして…互いの部への悩み。主将の看板を背負う男は、居酒屋の喧騒の中でこぼした。
「優しい立教の上に強い立教があればいいと思うんだよね。強さを追い求めるだけじゃなくてさ…。幅広いレベルの選手を、裾野を広く受け入れるのが立大陸上競技部の良さだと思うんだ」
部の成長に葛藤。
陸上競技部は過渡期にある。
1つは戦績の急成長。18年の関東インカレでは男子2部において、1970年の3位以来48年ぶりとなる4強入り。明立戦は08年以来の勝利を16年に果たして以来、今年で4連覇を達成した。
もう1つは組織体制の変化。17年間監督として部のタクトを振った原田氏は今年3月に同立場を退任し、長距離総監督に就任。後任として福田元助監督が就任した。同タイミングで男子駅伝監督に2009年日本選手権で1500㍍・5000㍍の2冠を達成した上野裕一郎氏が就任した。
変化には意見の相違がつきものだ。さらなる改革を推し進めたい部員、保守を大切にしたい部員。幹部ミーティングが白熱したこともある。
「チームが変わっていく中で(上と下の隔たりが広がらないことは)難しいものだと思うんだよ。上の人たち、強い選手はやっぱり結果を大切にするし、『なんで結果出ないの?』って(他の選手に)言っちゃう人も出るかもしれない。(和を保つことは)難しいなあと思うよ」
対立を好まない性格と、「優しい立教」を守りたいという価値観。正解などない問いばかりだ。部の成長は嬉しくも、時に悩ましい。
原点は高校3年次に見た景色。
シンプルな原点がある。
高校3年次の南関東総体の直後。監督からの誘いで、立大陸上競技部の練習に足を運んだ。
「練習も参加させてもらったんだけど、ここだったら陸上を楽しくできるなと思って。そこからはずっと立教が第一志望でやってきた。その点にあこがれてたから、(雰囲気を)崩したくなかったなあ」
あれから4年。変わらない信条を掲げた男はチームの中心にいた。
「ガク」の人的魅力。
「特に主将になってからはいろんなパートの選手に声をかけてて…記録会の結果をちゃんと見てるんだよね。『ベストおめでとう』だとか、『調子悪かった?』だとか。
昨年の夏合宿の時にも、責任者の私に気遣ってくれたり。ガクの優しさにみんな救われてたと思う。本当に愛される主将だったと思うよ」(辻松=観4=香蘭)
抜群のリーダーシップでチームを束ねるわけではない。後輩を叱咤し発破をかける鬼でもない。
同期と肩を並べて、「和」のために最適解を求め続けた。
陸上競技が好きで、十種競技が好きで、立大陸上競技部が大好きで。
松浦を第98代主将たらしめてきたのは、かけっこ少年のような信条だ。
(8月18日・小西修平)
◆立大陸上競技部
1920年創部。監督は福田治郎氏。今年5月26日に就任した第99代主将は飯嶋駿(済3=相洋)。部員数は121名(2019年8月19日現在)。出身の有名選手は岡田久見子(14年度卒=ビックカメラ)、出水田眞紀(17年度卒=第一生命)など。箱根駅伝大会への出場回数は27回で、最高位は1957年大会の3位。