【野球部】桐光出身の記者が見た立大のサブマリン 中川颯の軌跡と挑戦①~幼少期にあった強さの秘密

投じた直球はバットの根元に当たった。大きくバウンドしたボールは自身のグローブに吸い込まれる。落ち着いたフィールディングで一塁へと送球。同時に大きな歓声があがった。ただのアウトではない。立大が59年ぶりの全国制覇を決めた瞬間だった。マウンドで最後に闘っていたのは当時1年生であった中川颯(コ3=桐光学園)。甲子園出場経験者など、輝かしい功績を残した選手が集まる立大で1年生ながらベンチ入りを果たし、守護神として十分な活躍をみせた。だが、意外にも全国大会での登板は中学3年次以来。高校時代に甲子園出場経験もなければ、優勝経験も少ない無名の選手であった。2年次以降も先発、抑えなど幅広く立大を支え続ける中川。彼がここまで成長できた理由を高校時代の監督やフィットネストレーナーへの取材などを通じ、探った。

野球との出会いと父からの教え

「やるなら中途半端はだめだぞ」。野球を始める時に最初に父から言われた言葉だった。姉の友人の誘いがきっかけで始めた野球。それまで水泳、ゴルフなどあらゆる競技に触れていた。父からはゴルファーの道を勧められ、幼稚園の頃にはすでにクラブを握っていたが、小学校1年次に自分の意志でグローブに変えた。神奈川県内の強豪、横浜商業で4番をつとめていた父。野球の厳しさを知る父の教えに妥協はなかった。学校や練習が終わると毎日のように父の職場近辺の空き地で特訓が始まる。キャッチボール、ピッチング、素振り、Tバッティング、ランニング。高校入学までの9年間、夜遅くまでしごかれ、野球のいろはを教わった。当時を振り返り「あの時はやばかった。怖かった(笑)」と言葉を漏らすほどの厳しさ。幼い彼にとっては過酷そのものだった。練習試合、公式戦で犯した些細なミスは厳しく叱られた。だが本人は「辛かった思い出。だけどあの時の経験こそが自分を作っている」と父への感謝と共に振り返った。厳しい局面で力を引き出せる秘密とは自他共に認めるメンタルの強さ。原点には父が教えてくれた「妥協しない野球」があった。

成長のもとは目的意識と努力

幼いころから“怪物”と呼ばれるような抜群にうまい選手ではなかった。どこにでもいる野球少年だったが、1つだけ違っていたのは子供離れした目的意識を持っていたことだった。試合でどんなに打たれ、負けた日でも「かなわない相手ではない」「次勝負した時には絶対に勝つ」と闘志を燃やしていた。だが、ただがむしゃらに練習をするわけではない。少年野球での練習やフィットネスジムで行うトレーニングの一つをとっても「何のための練習なのか」、「この体の動きは何に効果的なことなのか」と目的や意味を考えた。大会に対しても「甲子園に行きたい」といった夢や希望ではなく、「甲子園に行く。行くために自分には何が足りないのか。どのような行動をとれば良いのか」と日々、考えながら行動した。長年、中川の指導を行っているフィットネストレーナーの若林氏は「予想外なんてことはない。こんな選手が活躍するだろうと思っていた」と彼のひたむきなアスリート精神と努力を評価している。事実、中学1年次から渡辺俊介(元千葉ロッテマリーンズ)を参考に父と練り上げた下手投げもわずか3年間で実戦レベルまでに仕上げた。打撃でも柔らかな体を生かし、高校では通算26本塁打の記録をたたき出す。大学では六大学選抜への選出や全日本で最優秀投手賞を受賞するなど、驚異的な成長を見せているが、若林氏は「周りの人はすごいと思うかもしれないが、俺と颯(中川)にとっては想定内かな」と意外にも冷静なコメントを残した。今までの成績や実績の裏には無論、センスはあったが、他人も認める幼少期からの高い意識と努力で成し遂げた記録だった。

中川が小学校からお世話になっているフィットネストレーナーの若林孝誌さん

②~想像以上に遠かった甲子園に続く
(4月11日/取材・文 山口史泰)

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